古い腕時計の修理と意思決定

 20年前にシンガポールで買ったオメガの腕時計が調子が悪い。どんな状態かと言うと時針が正確ではないのだ。現在2時15分だが分針は15を指しているのに、時針は2時と3時の真ん中、すなわち2時半を指している。昨夜11時半の時は時針と分針が縦に一直線になっていた。動かなくなるのは分かりやすい故障だが、わたしの時計の場合は少し変な感じで、病んだ人間のようで暑さのせいかしらと思ってしまうほどだ。

 問題はこの時計を修理するか否かということだ。何年か前に止まった時に、デパートで電池交換をしてもらった。その時たまにはオーバーホールをしたらと勧められ、値段を聞いたら3万5千円と言われて驚いた記憶がある。元々12−3万円で買った時計だから、今は1万円の価値もないだろうと思う。そんなもののメンテナンスに3万5千円もかけるのは馬鹿げている。

 その時は電池を変えれば普通に動いていたのでそう思ったのだが、今回は明らかにおかしい。人間で言えば病気だ。きちっと治療をして直した方がいいのではと言う気もする。インターネットで安く修理するところがないかと調べたら色々あって、メーカーの修理代が高すぎると考える人が多いことが分かる。伊勢佐木町にある修理屋で聞いたら、オーバーホールが2万1千円でその他部品等が必要なら追加になると言われた。はっきりした金額は言わないものの3万円程度はかかるようなニュアンスだった。ほとんど価値がない時計の修理に3万円もかけるのが良いのか、答えは自明のようだが何か引っかかるものがある。

 経済性からは答えは明白なのに躊躇う気持ちがあるのは何故か、これを少し考えてみた。まずこの時計の必要性。他に3個の腕時計をもっている上に、携帯でもiPadでも時間は分かるので必要性は薄い。経済的価値は前述のようにほぼないと思われる。一方でこの時計への愛着がある。それは43歳の時に2週間の海外トレーニングを終えた時に買ったという経緯があるからだ。当時会社の女性たちが自分へのご褒美として高価なものを買ったりしていたのに習ったのだ。2週間みっちり非日本人達の中で受けたトレーニングはそれなりにきついものだった。終わってホッとしてオーチャードの時計店で買ったのだ。

 もう一つの理由にそのデザインへの愛着がある。当時の時計は一般的に薄いものが多く、今の時計に比べると押し出しが弱い感じがするが、それはそれでシンプルで優雅な雰囲気を持っている。このデ・ヴィルという時計は特に薄くて腕にぴったりフィットする感じが何とも言えないのだ。

 この二つの点が経済合理性での意思決定に待ったをかけている。まあそんなに難しく言わなくても、思い出とデザインへの愛着がある時計を3万円かけて使えるようにするかという問題である。もったいぶって言うと非金銭的価値をどう見積もるのかということだ。一方で3万円はわたしにとって負担になる金額ではない。こう書くとそれなら話は簡単だ。直せばいいという意見も出る。まるで自明で上記の話とは正反対の結論になる。ちょっと待て、そんなに結論を急ぐなと言う声もする。

 何故そう思うのかと言えば、修理費に3万円を払うなら新しい時計を買ったらというオプションもあるからだ。しかし3万円の時計は買わないだろうから、それなりの追加の出費にはなる。この際だから少しいいものを買おうと思えば、30万とか40万の出費は覚悟しなくてはならないだろう。ちょうどいい機会だからという気もする半面、時計なんかに金を使うのは下らないという気がする。

 その上、そもそも時計だって機械なのだからいつか壊れるのだという感覚がある。直せば使えても、それは人間への延命治療のようなものでやる意味があるのだろうかと考えたりもするのだ。人間だっていつか死ぬ。いたずらに生に執着するのはみっともないじゃないかなどと考える。こうなると哲学の領域で簡単には答えなど出ない。まして私に分かるはずがない。

 話がこのように混乱してくるのは、元々持っていた気持ち、すなわち新しい時計を買おうかという気持ちや、機械の寿命に逆らってはいけないと言う感覚等を、このオメガの修理の意思決定に加えたことから生じている。本来の意思決定は上述したように、3万円の出費が思い出代や愛着代として、わたしにとって妥当かどうかということだった。意思決定はそこに焦点を当ててするべきだろう。教訓は非金銭的要素をあまり考慮に入れると意思決定は複雑になってしまうということだ。

 それで結論はどうなんだ?と聞かれるでしょうがまだ決まっていないのです。4時になったが机の上の時計の時針は4時20分を指している。あー、疲れた。