’アウトロー’を観る(1)

 わたしがはまっているハードボイルド小説、リー・チャイルドが書いた’ジャック・リ−チャー’シリーズが映画化された。邦題は’アウトロー’で、主演はトム・クルーズである。以前にも当ブログで書いたように、ジャック・リ−チャーシリーズは17作が世界中で出版されている人気ミステリーだが、日本では4冊が訳されただけで、その内2冊は絶版になっていることからも分かるようにあまり人気がないようだ。今回の映画化により、’アウトロー’(原題はOne Shot)が邦訳され、第一作の’キリングフロアー’も新らしい装丁で再出版された。ファンとしてはとても嬉しいことだ。

 わたしはシリーズ16作目の'The Affair'というのをたまたま読み、その後邦訳の物を3冊読んだ程度である。最新作でも読もうかと思っているのだが、他にやりかけのことがあって手が回らないという、やや熱心だが普通の読者であるが、映画を見るまでジャック・リ−チャーをしらなかった人とは少し思い入れという点で違うと思う。

 さて映画だが元の本を読んでいないので、映画そのものとしては楽しんで見れたと言える。わたしは映画のことは詳しくないので、小説を映画にするという作業そのものに、また小説の一場面を映画で表現した時の上手さに感心してしまうことが多い。しかし小説を映画にして小説の良さが伝わるかという点に関しては少し懐疑的である。500とか600ページとかの話を2時間位の映画にするのだから大幅にカットするところが出てくる。それは映画監督がその小説をどのように伝えたいか、その小説のどこが良いと考えているかに依存した取捨選択の作業だろうと思う。だから監督が良いと思っている点とわたしが良いと持っている点が違うと違和感を覚えてしまう。映画という形では小説そのものを伝えるには限界があることは理解していても、力点の置き方、解釈の違いのよる違和感を感じることは多い。

 ’アウトロー’は小気味の良い、スピーディな演出でハードボイルドな雰囲気が良く出ていると思う。しかし一方では少しアクションに振りすぎではないかという気がする。リ−チャーが勇敢でへこたれない、かつ正義感がありやたらと強いといった点は描かれているが、そのベースにある彼の思慮深さ、冷静さ、孤独そして小説全体が持つ知的な渋さみたいなものは伝わってこない。

 ここが監督による取捨選択なのだろう。わたしが希望するようなところを、短い時間で描くのは難しいとして、映画の面白さも考えてアクションに振ったのだろうと思う。やむをえない点もあると思うが、もし二作目以降が作られるならこの点は少し軌道修正をして欲しいものだ。

 製作者側はあらかじめシリーズ化を考えているらしいが、なにせ投資効率に厳しい米国のことで、一作目が経済的に成功しなければ二作目はないだろうから、現時点ではまだ未定というところだろう。しかしトム・クルーズを主演に持ってくるところなどはやる気満々に見える。もっとも小説の読者としてはトム・クルーズがジャック・リ−チャーで良いのかというのは重要な点である。

 映画の原題は’Jack Reacher'となっている。これもシリーズ化を想定しているようなタイトルである。一方で邦題は何故’アウトロー’なのだろうか。多くの日本人が知っているカタカナ英語で映画の雰囲気に合っている言葉だとでも考えたのだろうか。これでは無法者の意味が強すぎて主人公の持つ正義感や悪への嫌悪が伝わってこない。このセンスはどうにかしてほしいものだ。これではせっかくの映画の足を引っ張るようなものだと思う。’ジャック・リ−チャー’のほうがよほど良いと思うのだが、パンチがないと思うならxxxx・リ−チャーのようにぐっと引きつけるような形容詞をつければよいと思う。今までも’ダーティ・ハリー’とか’XXのランボー’とかつけてきたのだから。

 もう一つ映画で良かった点は、リ−チャーと一緒に事件解決をする美人弁護士をロザムンド・パイクと言う女優が演じているが、彼女とリ−チャーのベッドシーンがないことだ。さあ寝るぞ、そろそろやるぞと思わせて何も起こらない。リ−チャーのクールな面を強調しているのかもしれないが、結果として後味が良い。他の小説でもリ−チャーはやたらと持てるのだが、だからといってやればいいものでもないのだ。

 次回では上で述べた、トム・クルーズがリ−チャーのイメージに合っているかについて述べたい。