イタリア地震予知裁判

 2009年にイタリア中部のラクイラで起こった大地震について、イタリアの裁判所は地震のリスクを判定する国の委員会のメンバーが適切な評価をしなかったとして、7人に対して禁錮6年の実刑判決を言い渡した。これは1週間ほど前に伝えられたニュースだが、大変論議を呼ぶ内容だと思う。

 日本地震学会の加藤照之会長がこの判決を批判する声明を出したが、日本の基本的考え方は学会の反応に近いように思う。要するに地震予知は現時点ではほとんど不可能なのだから、事前に大地震を予測出来ず、人々を油断させて被害を小さく出来なかったことをもって、罪に問うのは適切でないということである。これは妥当な考え方だと思うが、もしそうなら地震予知などに多額の費用をかけて研究するより、防災など他のことに回すべきではないかという議論も当然出てくる。それも重大な点だが、ここでは予知裁判に焦点を当てて議論したい。

 ラクイラの大地震は2009年の4月に起こったが、4カ月位前から小さな揺れが続いており、地震委員会はこの前震を大地震の前触れではないと3月末に発表した。大地震は起こり、結果的に300人以上が死亡し、6万人が家を失ったとされる。裁判所はこの委員会の発表が被害を大きくしたと判断した。

 日本でも近い内に大地震が起こるという予測は数多くあるが、もう少し時期を狭めて、何月頃起こると予知する例はほとんどない。たまにそうした予知と言うか予言をする人もいるが、いつもはずれる上、余地の根拠も薄弱でガセ情報の域を出ない。近い内に起こるという位なら、わたしにも言えるし長屋のご隠居だって言える。言い換えれば、学者だって地震予知などはほとんど不可能なのだ。わたし達が学者の意見から学ぶとしたら、それなりの備えをするということぐらいだろう。こう考えるとイタリアの裁判所の判決も妥当性に欠けるといわざるを得ない。

 小地震が続けば、誰でも大地震の前触れかもしれないと考える。もしイタリアの地震委員会が近い内に大地震が起こる可能性が高いと発表していたら、
検察は告発しなかったのだろうか。委員会が言えるのはせいぜい近い内であり、何月という特定など出来なかったろうから、何か警告を出したとしてもやはり具体性に欠けると批判はされたろうが、告発は免れただろうか。

 ここでの問題は、何か言えば告発は免れるとすると、こうした場合必ず安全サイドで何か言う方向で決まることだ。それは結局、専門家の意見の信頼性を弱めることになるし、真剣な予測とおざなりな予測の区別を難しくする。
 以前このブログで、天気予報官がリスク回避型の予測をするのを、どう防ぐかという話を書いた。リスク回避型の天気予報とは、晴れと予測して雨が降る方が、雨と予測して晴れるより、非難されやすいので、前の確率を多めにして発表するということだ。天気予報は天気図から2−3日先の天気を予測できるので、地震予知に比べはるかに信頼性は高い。それでも予報する側には、色々な雑念が出かねない。信頼性の低い地震予知に天気予報と同じものを求めたら、地震学者は沈黙するか、いつも大地震のリスクが高いと予測するしかないだろう。

 イタリアの裁判所の判決は問題が大だが、評価できる点がないわけではない。それは地震予知の限界を明らかにしたことだ。天気予報くらいの確度で予測できて初めて地震予知と言える。そして私のような素人から見ても、それが可能になるのは現時点ではほとんど不可能だ。その研究をやめろとは言わないが、研究費を予知ではない分野に振り分けた方が、実際の被害を小さくできるのではないか、こうした議論をもっとする時に来ているように感じる。東日本大震災の少し前にも、非常に規模が大きい地震が起こっていたが、誰も大地震の前触れだといわなかった。学者も大地震が起きてから、あれは前震だったといっているくらいだ。

 地震研究こそ学者の縄張り争いやプライドの戦いから離れて、日本を守るという立場から行って欲しいと願うばかりだ。