由紀さおりとピンク・マルティーニ

 10月2日に由紀さおりとピンク・マルティーニのコンサートに行ってきた。由紀さおりの特別なファンではないが、どちらかと言えばピンク・マルティーニのリーダー、トーマス・ローダーデール(Thomas Lauderdale)への好奇心から足を運んだといえる。

 コンサートは思っていた以上に楽しめた。由紀さおりは昔からの由紀さおりで相変わらず色っぽく上手い。もっとも他の歌手のヒット曲をカバーしている以外は、目新しいところはなく、またピンク・マルティーニとのコラボと言っても、彼らの演奏はそれぞれの曲のオリジナルの演奏と大きく違わないので、斬新なアレンジに驚くこともない。トーマス・ローダーデールはむしろ原曲の良さを生かそうとして、大きなアレンジはあえて行わないようにしている風にもとれた。

 このコンサートの面白さは、由紀さおりの歌とピンク・マルティーニの演奏が半々のところにあると思う。由紀さおりはとても上手い歌手だが、1時間40分全部彼女の歌だと私などは飽きてしまいそうなところ、半分はバンドの歌と演奏なので退屈しない。

 由紀さおりとピンク・マルティーニののアルバム’1969’は昨年10月に発売されたが、11月の米iTunesでジャズ部門で1位になったことで話題になった。また10月のロンドンにおけるピンク・マルティーニのコンサートに由紀さおりが参加した後、12月には米国で6か所のツアーを行って、大成功をおさめた。

 ピンク・マルティーニについて良く知らなかったわたしは、ジャズ部門で1位になったという情報からモダンジャズの系統のバンドだと勝手に思い込んでいたが、聴いてみたらジャズと言うよりラテン系のバンドだと感じた。編成もパーカッションが3人もいるのに、ラッパはトランペット一人である。それ以外はギターとベース、弦楽器(バイオリンとチェロが4-5人だと思った)、トーマスのピアノと歌手が男女一人ずつである。
 
 演奏はとても上手い。ピアノはもとより、ギターとトランペット、ドラム等全員が高度なテクニックを持って、聴き手をのせてしまう。歌手もアップテンポの曲は、由紀さおりより乗りがよく、声も出ているくらいだ。ピンク・マルティーニの演奏だけでも十分聞く価値があると思った。由紀さおりとのコラボで、最も気に入ったのは'真夜中のボサノバ’だ。これは’ヒデとロザンナ'のヒット曲だが、由紀さおりと歌ったティモシー・ニシモトが良いし、バンドも歌謡曲の伴奏とは思えないノリだ。YouTubeでも聞けるのでお勧めだ。

 というわけでコンサートは中々楽しめたのだが、わたしの好奇心を刺激していたトーマス・ローダーデールその人についても触れておきたい。去年の米国でのコンサートの様子をレポートしたTV番組で、トーマスが赤いランドセル(日本の小学生が持つやつだ)を背負っているのを見てとても興味を持った。一体こいつは何者なんだ、どんなバックグラウンドを持っているのかという疑問だ。今回コンサートを見てその疑問を再び強く感じたので、少し調べてみた。

 彼は1970年生まれで、2歳の時に牧師のローダーデ−ル夫妻の養子になり、インディアナ州で育つ。子供の時から才能があったらしく、教会での礼拝が終わると、ピアノのところに行って彼が聞いた讃美歌をマネしようとしたらしい。盲目のピアニスト辻井伸行が2歳の時に、隣の部屋にいた母親が口ずさんだメロディをおもちゃのピアノで弾いていたというエピソードを思い出させる。トーマスが6歳の時に両親がアップライトのピアノを買ってくれて、彼は正式なピアノのレッスンを始めたという。1980年に彼の家族はオレゴン州ポートランドに移り、ここが後に彼の音楽活動のホームベースになる。

 彼が育った環境は中々難しかったようで、父親がゲイであることを告白して、両親は離婚したが、その後そのことをテーマにしたトークショウを二人でやっていたらしい。彼の父親は、キリスト教のその宗派で最初にゲイであることをオープンにした牧師だったそうだ。

 ローダーデールは音楽で才能を発揮してオレゴン州のコンテストに優勝したりしていたが、勉強も良く出来たという。彼はハーバード大学に入学し、歴史と文学を学び優等の成績で卒業した。バンドの女性歌手チャイナ・フォーブスとは大学で知り合った。ピンク・マルティーニとしての活動は1994年に始まる。バンドとしての活動以外にピアノのソリストとしても大成功をして、様々なオーケストラと共演している。

 彼の活動で目を引くのは政治的な活動にも熱心なことだ。高校時代から様々な市や州の組織にかかわっている。近年はゲイの権利擁護に積極的に参加し、ゲイであることをオープンにしたポートランド市長、サム・アダムスを支持する集会を組織している。当然ながら彼自身もゲイであると考えられるが、上述した彼のバックグラウンドがピンク・マルティーニの音楽に影響を与えている気がする。パッショネイトだがどこか抑えた知性を感じさせる演奏がこのバンドの魅力だ。彼が先入観を持たず、世界の音楽を取り上げるのも彼の自由な精神によるものに思える。エルトン・ジョンを連想させるところがあるが、もう少し一般に近く、社会性があるようだ。言い換えればエルトン・ジョンのほうが天才的な才気を持っているのかもしれない。

 由紀さおりとのジョイントコンサートのフィナーレは'ブラジル'の演奏で、大いに盛り上がった。ステージから去る時に、彼はどこからか出した赤いランドセルを背負って去って行った。