芥川賞作家 西村賢太

 平成22年度下半期の芥川賞をとった「苦役列車」を読んだ。10代の頃日雇いで生活をしていた西村賢太氏の体験に基づいた、所謂私小説である。西村は幼少の頃はかなり裕福だったそうだが、小学校5年の時に父親が猥褻事件を起こし経営していた運送業も上手くいかなくなり、両親は離婚する。西村は母親に連れられてゆくが、生活は貧しく、やがて学校にも行かなくなる。中学を卒業して就職をしようとしても、学歴もなければ運転免許証さえない若者には普通の仕事はなく、日雇いで毎日を過ごすようになる。この頃の屈折した気持ちを正面から描いた小説で認められた。


 その日暮らしの日雇いの若者の僻みやいやらしさを読んで何が面白いのかとの疑問を持つかもしれないが、読むとこれが面白いのだ。その要因の一つは西村の文章の上手さであり、簡潔で締まった文体で主人公の心の動きを的確に表現している。そしてなによりもこの小説に一種の普遍性を与えているのは、主人公の感情や行動に、人間なら誰しもが持ついやらしさや意地悪さが表わされているからである。おかれた境遇は異なっても人間の本質は変わらないという真実を示している。
 主人公は社会の底辺で生きる男で、関心のほとんどは食欲と性欲で、それがそれなりに満たされると怠惰になるが、自分より恵まれた者に対しては強い嫉妬心を抱くような人間である。しかしこの主人公を自分とは無縁の人物だと言える人はきわめて少ないはずだ。もしそう言うなら、その人は自らを省みることのない無思慮で無神経な人間か、根っからのうそつきだろう。


 西村健太は実際に悲惨な過去を持っているが、明らかに才能に恵まれた人間である。その作風は力強く爽快とさえ言え、優しさが幅を利かせる現代では特異で貴重なものである。悲惨な生活を描いてもユーモアやペーソスを感じさせ、かつ人間の本質的ないやらしい面を確実に伝えている。自分の僻みやねたみを正面から見つめ、感情に流されずに正確に描きだす西村はプロとして根性の据わった作家だといえると思う。

 どんな作家も成功したデビュー作の次が難しい、勝負だと言われる。西村賢太もこれからが大変だろうと思う。受賞後のインタビューで西村は「僕は華やかな生活は書けませんからね。みっともないことや、屈辱的なこと、腹立たしく思うこと・・・はたから見れば滑稽なのかもしれませんが、悪あがきしながら生きている自分を書いていくしかありません」と答えている。前述のように根性の据わった作家なので、芥川賞に浮かれて自分を見失うようなことはないと思う。しかし現代の社会はこれだけの才能を持った人間をほおっておくことはなく、芥川賞作家である西村を取り巻く環境は大きく変わるはずだ。西村はそれに抵抗して何とか自分らしい生き方を貫こうとするだろうが、そういう努力をしなければならないということそれ自体が、彼がこれまでとは大きく異なった状況にいることを示している。

 西村が彼の原体験とも言える悲惨な無名時代から離れることはないと思うが、今となってはそれは昔の彼でしかなく、現在の彼はそうした過去を持った職業作家なのである。多くの人が人生を賭けた修行をしてまで手に入れたいと思う賞をデビュー後すぐに掴んだ彼は、好むと好まざるとにかかわらず、芥川賞作家として生きてゆかねばならない。そうならば私小説作家として彼が今後書いてゆくべきは、悲惨な生活を送った時代の屈折だけではなく、そうした経験をベースに有名作家としての入口に立った自分の内面や生活の変化であろう。彼は「今回の受賞で何かが変わったわけではない」ともいっているが、事態はそんなに簡単ではないはずだ。貧困から豊かさへ、無名から有名へ、こうした変化がもたらす自分ではコントロールが出来ない影響は間違いなくあり、それはあらたないやらしさや傲慢さといった内面的な変化となって出てくるのではないだろうか。こうしたものを西村がその才能でどう描いてゆくか興味を持って見ていきたいと思う。

 そんな変化に耐えられないと言って、西村が影響を受けた田中英光のように自殺したり、藤澤凊造のように精神的におかしくなって野たれ死んでほしくはない。21世紀の無頼派私小説家として新しい生き方を見せて欲しいと願っている。