'ハーバードビジネススクール'を読んで

 この本は副題に'不幸な人間の製造工場'とあるので、ハーバードビジネススクール(HBS)の批判本と受け取られがちだが、それほど単純ではない。HBSの教育の優れた点、教授達のレベルの高さなどは率直に評価している。しかし一方でHBS教育の本質的な問題点を鋭く指摘した優れた文明批評である。HBSが持つ問題点は、アメリカのビジネス社会の問題点を反映したもので、過度な利益追求の社会でのエリートを作り出そうとすることに疑問を抱かない学校や学生たちに対する違和感を、具体的な授業やその準備のディスカッションの中で浮かび上がらせている。

この著者はフィリップ・デルヴス・プロートンというバングラデシュ生まれで英国育ちのジャーナリストで、彼のこうしたバックグラウンドがHBSでの出来事を客観的に見ることを可能にしているようだ。もちろん著者の類まれな教養と本質を見る洞察力が、この批判精神とユーモアがあふれる本を作り出したのことは疑問の余地はない。

 HBSでの過酷な勉強を卒業後手に出来るだろう高給への期待で我慢する学生の姿が見事に描かれている。学生たちの多くは金融業界かコンサルティング会社への就職を希望しているが、その金融マンやコンサルタントとしての生活が高給と引き換えに、週に100時間を超える労働によって成り立っていることを知っている。彼等はビジネスエリートになると同時に家族との触れ合いや自分の時間を有意義に過ごす生活を捨てることを余儀なくされるのだ。それを知りつつ大多数の学生は金融界を目指すほどの高給が約束されているわけである。少し前に当ブログで国内ビジネススクールの実情について書いたが、そこで日本のビジネススクールが苦戦する理由は、学生にとって投資に見合うリターンがないことだと述べた。HBSはまるで違う世界だということだ。

 この本に書かれたのは2004年から2006年のHBSでの勉強と生活であり、2008年のサブプライムローンによる経済破綻が起こる前のことである。従って金融業界がわが世の春を謳歌していた時である。当時の学生の一番人気の就職先はプライベートエクイティヘッジファンドで、入社一年目の年収は40万ドルだったそうだ。当時のレートで4500万円くらいだろうか。投資銀行はその半分くらいで、そこへの就職は仲間からは負け組とみなされるとある。初任給が20万ドルでも負け組なのだ。彼等がHBSにいた時に考えた真の金持ちの基準は、自家用ジェット機を持っていることだった。そのためには1億ドルを超える純資産が必要で、それが単なる裕福と一線を画す基準だったと書いている。まともな人間ならそんなことが当たり前だと考えている世界は狂っていると考えるはずだ。しかしHBSではそんな議論はなされないそうだ。
 サブプライムローン問題が明らかにしたように、ウォールストリートの連中が常識外の高給を手に出来るのは、金融工学から編み出した怪しげな商品、それは結局経済的弱者を食い物にすることで成り立っているのだが、それを売りまくるからだ。ローンが払えず破産した人達に対しては自己責任と言って何の痛みも感じず、経済とはそういうものだとうそぶいている。TVで堀江貴文氏が同じようなことを発言したのを覚えているが、情報も知識も乏しい人達が結果的に損をする仕組みを不公正と感じない神経はやはり問題だろう。

 少し前に読んだジョン・グリシャムの’The Associate’という小説は、Yaleのロースクールを良い成績で卒業した主人公が昔のある事件で脅され嫌々NYの企業訴訟専門の大手法律事務所にはいり、裁判の機密情報を盗むことを求められる話だ。そこでの彼の初任給は20万ドルで5年以内に倍になると書かれている。小説だから誇張してあるかもしれないが、先のHBSの例から考えても十分あり得る話だ。彼らの生活も悲惨の極みで週100時間以上の労働を求められ、それを上手く契約企業に請求(billing)するかが評価の基準だ。上司と高価な食事をした際に、訴訟に関する話を少ししたからその企業に食事代と酒代をチャージしようと話すシーンがある。これは相手が大企業だから納得づくの話とも言えるが、NYで若いプロフェッショナルが高給を得る事実、その高給を可能にする仕組みのいかがわしさに変わりはない。これもまともな人間からはおかしいと感じる世界だ。

 前記のHBSの本では著者が卒業後の高給にひかれながらも、やはりこれは普通ではない、何かおかしいという気持ちを持ち続けることで(結局そうしたタイプの人間なので就職に失敗したのだが)彼は健全な判断力と批判精神を保ち、結果としてベストセラーの著者になった。現在はNYの郊外で家族と暮らし、ホームオフィスで執筆に大忙しだそうだ。彼はHBSでの勉強を評価し、ビジネスについて多くの知識を得たことが彼のジャーナリストとしての能力を高めたと認めている。
 グリシャムの小説の方は、主人公が田舎町で多くの人を助ける弁護士として尊敬されている父と一緒に事務所をやると決心するところで終わる。小説だが、アメリカの良心がまだ生きているという希望を残している。

 今日本の経済状況は芳しくはない。しかし再生させるとしてもそのモデルは決して上述したNYのようであってはならないだろう。従って日本のビジネススクールも米国とは異なる方向で生き残る道を考えるべきだろう。
 わたしは成功者が多くの富を手にすることがいけないと言っているのではない。程度の問題だ。自ら努力して成功した人がその果実を受け取るのは当然である。自ら企業を立ち上げたにせよ、大企業でトップに上り詰めたにせよ、それは大したことで経済的な見返りがあって当然だし、尊敬されても良い。しかし同時にそうしたリーダーは社会的公正に対するこだわりを持つ必要があるし、また法律や社会の仕組みとしても所得の適切な配分がなされるようになっているべきだと思う。グローバルな競争下でアメリカ経営の表面的な模倣が進む中で、日本の経営者の適切な報酬についての議論ももっとなされるべきだと思う。