そんな時代

 昨日の日経の文化面に掲載された海猫沢めろん氏のエッセイのタイトルが「そんな時代」だった。そのエッセイは9歳の息子と散歩している時に、彼が突然「おれね、自分で頭いいと思ってるよ」と言ったことから始まっている。確かに息子は勉強も運動も出来るのだが、こう発言するのに筆者は当惑してちょっと水をかけようと思い、ソクラテスの’無知の知’を持ち出したりするのだが上手くいかない。要するに学ぶこと、知識を得ること、モノの本質に迫ろうとすることなどは果てしない行為で、自らに謙虚でいることがその行為を支えるのだといいたいのだが、息子は「そんなことを言っていたらバカに見えるだけだ」と言って取り合わない。筆者は今はそんな時代なのかとまわりを見てみると、確かに大統領も総理大臣もネットで発言し「自分のやったことは正しい」とか「あれもこれも自分だから出来た」とか発言し、誤りを認めることなどない。当然謙虚とは無縁だし、品性などもないが、景気をよくしてくれそうだといった理由でリーダーに選ばれてしまう。

 

 筆者は息子の友達が「スネ夫になりたい」というのも聞いた。「ジャイアンに守ってもらえるし、なんでも買ってもらえるからうらやましい」そうだ。スネ夫は’ドラえもん’の中で最も品性に劣ると思うのだが、それをうらやましいと思う子がいる時代なのだ。筆者はそんな時代に腹を立てつつも、それを変えられないことを嘆いて面白いエッセイになっている。わたしはこの記事で初めて海猫沢めろん氏を知ったのだが、その経歴を調べたらとても興味深い人だった。今は小説家として認められているが、ここに至るまではホストやほかの職業をしてきたそうだ。この息子の母親、めろん氏の妻が出産後体調を崩したので、この人がまだ作家として成功する前に一人で子育てをしたそうで、その時の苦労、死のうかと思ったこともあることを本にしている。頼る人もなくて一人で子育てに携わった多くの母親がその内容に共感しているそうだ。

 

  このようにエッセイは面白いが、本当を言うと読む前にわたしはそのタイトルに引き付けられていたのだ。「そんな時代」このタイトルはわたしに中島みゆきの代表曲’時代’を思い出させるからだ。多くの人が知っていると思うが、それはこんな歌詞で始まっている。

 

  (イントロ) 今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて もう二度と笑顔には

         なれそうもないけど

 

  そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ

  あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ

  だから今日はくよくよしないで

  今日の風に吹かれましょう

 

 いつ聴いても、いつ歌詞を読んでも魂を揺さぶられる。1975年に発表されたこの曲が50年近く経った今もその輝きを失わないのは、困難に立ち向かう人たちの気持ちをくみ取り、支えるからだろう。この国ではわたしが生まれる前に太平洋戦争があり、10年ほど前には東関東大震災があり、最近はコロナの感染が広がっている。こうした出来事のたびに、多くの人が命を失い、大きな怪我をし、本人だけではなくその家族や友人が悲しみや痛みを受けている。第三者はそれに心を痛めて、支えになりたいと思い、出来ることをしてみる。それはそれで被害を受けた人たちやその周囲の人たちへの何らかの助けにはなるのだが、本当の苦しみや痛みは想像するしかできないし、やはり当事者の方々が自ら乗り越えていかなくてならないことなのだ。何かがおこるとわたしたちはそのことに気づき無力感の中でも何かしようと、希望を持とうと思う。そんな時の気持ちを支えてくれるのがこの歌だと感じる。

 

 大げさな言い方だが人類の歴史とか暮らしとかはこうしたことの繰り返しだと思う。困難に遭遇しても一人ひとりが懸命に生きてきた積み重ねが歴史を作ったのだと思う。

それは今も変わらない。中島みゆきの歌詞の凄さはそうした物事の本質をとらえて、さりげなく表現しているところだ。その評価はこれからまた50年経っても変わらないだろう。2番はこんな風に始まっている。

 

   旅を続ける人々は いつか故郷に出会う日を

   たとえ今夜は倒れても きっと信じてドアを出る  

   たとえ今日は果てしもなく 冷たい雨が降っていても