宗教に救いを求める人たち

 3月7日にテレビ東京で「オウムは今も生きている」という番組があった。地下鉄サリン事件から20年ということでの企画である。オウムに関係した様々な人たちの証言を紹介し、オウムの後継団体であるアレフの活動についても取材した見ごたえのある内容だった。

 特に興味深かったのは無差別テロを起こしたオウムの教義を引き継いでいるアレフに少なくない数の若者が興味を示し入会していることだ。20年前には生まれていなかったか幼かった人たちには、あの残虐なテロ事件も昔の出来事なのだろうし、オウムは本当の犯人ではないと説明されると信じてしまうのかもしれない。しかし当時の記憶がまだしっかりとのこっているわたしには、そうした説明はあまりに無責任だし、殺害された坂本弁護士が夫人と子供と楽しそうに遊ぶ映像を見るとオウムの教義を継承することなど決して許すことなどできない。

 しかしいつの世でもある一定数の人は宗教に何らかの救いを求めるものだ。そう考えると若い人たちアレフを含めた新興宗教に行くことをやめさせるより、そうした宗教団体に対する監視を強めたほうが良いのではないかと思う。もちろん信仰の自由を妨げるという議論が起こるだろうが、何の監視もしないとオウムのように武装化しても気づかないことになってしまう。閉ざされた空間で考え活動する団体が過激になったり、全体主義的傾向を持ったり、さらには武装化するのは歴史的にも、世界的にも珍しいことではない。

 新興宗教の生い立ち、教義、活動を調べるとどうも怪しいのが少なくない。教祖が立派とか、教義に説得力があることより、どんな方法であれ信者を獲得する能力があることが宗教団体として成功する秘訣のようだ。そして信者に財産の多くを寄進するように仕向ける。世俗的な欲望が悩みや迷いの元だと言って財産を捨てる⁽すなわち寄進する⁾ことがまず第一歩だと言うのが普通だ。一方で教祖は贅沢三昧で、欲にまみれた生活をしている。さらに多くの新興宗教はハルマゲドンで信者の不安をあおる。これについての彼らのロジックは以下のようなものだ。

 欲にまみれた現代社会はやがて行き詰まり最終戦争⁽ハルマゲドン⁾に突入する。人類の多くは死に絶えるが生き残る人たちもいる。それは世俗の欲を捨ててこの宗教の教義に沿った生活をしている人たちだ。多くの宗教がほとんど似たようなことを言っているのは、ハルマゲドンが信者獲得や寄進の推進にとても効果的なのだろう。第三者から見るとまるで馬鹿げているのだが。

 ハルマゲドンが本当に効果的であるにはそれが近いうちに起こると予言し、それを信じさせなくてはならない。しかし実際にはそれが起こらないので教祖の権威は失墜し信者が減ってしまう。⁽一時はやったノストラダムスの予言などは良い例だ)それを避けるにはハルマゲドンが起こるのを100年とか200年先だと言えばよいのだが、それでは効果が薄い。そうなるとオウムのように自ら武装してハルマゲドンを起こして予言を的中させることが起こる。

 話はそれるがオウムは地下鉄で殺人の実験をした後ではヘリコプターで大都市の上空からサリンをまく予定だったそうだから相当に危険だ。そのために武器や麻薬も大量に入手しようとしていたそうだが、それがどこの国からなどの核心部分は謎のままだ。もちろん知っている人はいるのだろうが一般の国民には知らされない。

 話を戻すとこんなシナリオを話す宗教になぜ少なくない数の人たちが惹かれるのかということだ。苦しい社会状況にある人たちや、精神的な悩みを抱えた人たちは何かに救いを求めたいのだろう。何かにすがる、何かを全面的に信じるというのはある意味で楽だというのは分かる。もうものを考えなくてもよいからだ。とても状況を打開できそうもない時や、まったく悩みの答えが見つからない時に、何かを信じて祈れば救われるといわれると楽になるのだろう。

 わたしたちの身の回りの問題はほとんどすべて簡単には解決がつかないことだらけだ。政治も外交も原発も経済格差も、政治家でもどうやってよいのか分からないのに分かったような顔をして安請け合いしているだけだし、もっと身近でも長時間労働や残業未払い、リストラ、介護、子供の引きこもりや非行等々きりがないくらいだ。だからもうどうでもよくなり、自分で考えたくなくなる。しかしオウムの例を出すまでもなく、安易に全面的に宗教に頼るのは大きな危険が伴う。自分の弱さを認めたうえで、状況を改善するための行動をしてゆくしかないのだと思う。宗教はそういう時の支えであり、それ以上のものを与えてくれるという宗教からは離れたほうがいいと思う。