' カタカナ英語'の改善について 

1週間ほど前だと思うが、音楽評論家のピーターバラカン氏がどこかで'猿はマンキ、お金はマニとすべきだ'と書いて英語のカタカナ表示の問題点を指摘していた。

私も英語では苦労したからバラカン氏の指摘は良く分かる。自分の英語力で欠けているのはビジネスや経済以外の分野の語彙力であったが不得意な分野での難しい単語を知らないのは恥ずかしくはない。問題なのは小中学生で習ったような図形の名前が出てこなかったり、化学元素の発音が通じなかったりすることで自分が馬鹿に思えて恥ずかしくなる。二等辺三角形や半径などは文書で読んでいる時は分かっても、話す時に出てこないことが多い。またヘリウムやナトリウムもそうであった。


バラカン氏の指摘に該当するのはヘリウムであって英語でもheliumだがヒーリアムとでも言わないと通じない。ナトリウムに至ってはドイツ語だから全く通じない。sodiumと言わなくてはならない。
その他国名、都市名、人名などが厄介で我々は受験や読書を通じて膨大な知識を有しているのにそれが役立たないことが多い。これらが通じない原因も上記の例と同じで、英語の発音とカタカナ表記が全く合っていないか、英語以外の読み方で覚えているからである(この英語以外の読み方もその言語の本来の発音とは異なることが多い) 


よく言われる例だが、ローマ字の考案者のヘボン氏と女優のオードリー・ヘップバーンは同じつづりでHepburnと書く。この二つのカタカナ表記のどちらが通じやすいかと言えばヘボンであろう。少なくともヘップバーンと言って通じることはまずない。明治の人は耳で聞いて近いものをカタカナで記したが、昭和の人はつづりに忠実にあらわすのが良いと思ったのだろう。(もっとも最近はヘプバーンと書くのが主流のようだ)

しかし出来るだけ原音に近いほうが望ましいのは言うまでもない。韓国の人でも金大中ではなくキムデジョンと書くほうが良いのと同じだ。あの美しい女優がヘボンでは興醒めだという気持ちもあるのかもしれないが、へバンまたはへバーンが近いだろう。日本語での響きがその人(物)のイメージに合わないと言って変えるのは、大変傲慢かつ偏狭な考え方だと思う。

ヨーロッパやアジアの地名や人を英語読みに近付けることへの異論もあるかもしれないが、世界の共通言語となっている英語読みにすることは多くの日本人にとっても便利であろう。もちろん外国語をカタカナで表すのだから限界はあるが、一つのルールを定めてそれを徹底すれば、世界史、地理、音楽、美術などの授業や本で学んだ知識の多くが外国人と英語で話す時そのまま使える可能性が高まるのである。

一つのルールに定めると言っても現在のように外国語の表記の仕方に統制がとれていない状況では簡単ではない。安藤邦男氏という英語教師だった方がカタカナ英語の現状、それが如何に一貫性のない表記になっているかを見事に分析されている論文があるが、それによると自国語の音韻体系に忠実であろうとする伝統主義と、原音からのズレを小さくしようとする原音尊重主義の対立があるのだそうだ。具体例としてはcreditを前者はクレヂットと表し、後者はクレディットと書く。最近では原音尊重主義が主流で、国語審議会も平成3年にこれを採用することを勧める決定をした。しかしこれも勧めるだけだから新しい外国語はそうなるとしても、従来から使われているものまで変えようとするほどのものではないようだ。

わたしも原音尊重に賛成だが、出来ることならもう一歩進んで一貫性のある表記にしてもらいたいと思う。特に国名、都市名、人名に代表される固有名詞は英語の発音に近いものを使うようにしたい。ミュンヘンはミューニック、ヨルダンはジョーダンと言った変更である。車の名前もBMWは私たちが若いころはベーエムベーと言ったが現在はビーエムダブリュだし、ベンツも今やメルセデスが主流となっている。もっともメルセデスでは通じないからマーシーディスというような表記にしないといけないだろう。

この変更でもう一つ避けては通れないのがアクセントの明確化である。日本人の英語が通じない大きな理由はアクセントが正しくない上、はっきりしないからである。私も大学生の時カナダで日本人の高校生から'イタリアは何て言えばいいのですか?’と聞かれイタリアはイタリーだろうと返事したが、中々通じず色々説明しているうちに先方のカナダ人が'オー、イッタリィ’と声をあげた記憶がある。今思うとなんてお粗末なと感じるかもしれないが40年前はこんなものだった。Italyは頭にアクセントが来るのでイッタリィと書いてあれば苦労はなかったかもしれない。

問題はこれを決めたとしてもどう広げていくかである。最も有効なのはテレビのニュースなのでアナウンサーが英語的な発音を使うことである。日本のニュースではアナウンサーは意図的に外来語を平板に読むようにしているのでこれは大変革になるし影響力は大変なものである。アクセントの表記は難しいが一部の辞書にあるようにアクセントのある文字をゴシックで表すことは出来る。発音記号とテープなどでネイティブの発音を比べて覚えるのが良いのだろうが、これも次善の策にはなりうると思う。


日本人は英語が出来る人へのコンプレックスが極めて強いから、テレビでこうした変革をしたらものすごい反発があるのかもしれない。私が今でも記憶しているものに磯村尚徳氏がキャスターを務めた'ニュースセンター9時’という番組での出来事がある。この中で伊藤鑛二アナウンサーが当時のカナダのトルドー首相をトゥルードーというように発音をして原稿を読んだ。その後で磯村氏は'伊藤アナはVOA等の海外勤務が長く思わずトゥルードーと言いましたがトルドー首相の誤りでした。大変失礼しました'と謝ったのである。35年以上前のことだから私の記憶も正確ではないがおおむねこうしたやりとりがあった。これは私にとって大変印象的な出来事で驚いた記憶がある。テレビニュースのキャスターはここまで気を使わなくてはならないのか、こんなことで文句を言ってくる人がいるのかという点に関してである。

グローバルな時代になって日本人の考え方、感じ方は当時と変わったのだろうか? もし今も磯村氏と同じような気を使わなくてはならないとしたら英語を小学校から教えても大きな成果は期待できないかもしれない。国際的な考え方を持つと言っても、それは身の回りの小さなことから始めるのが重要なこともあるのだ。高速道路の無料化も良いが、民主党にはこんなところでも改革に一歩を進めてほしい。

以上カタカナ英語について書きましたが、私の文章にもカタカナ英語で原音から離れているものや日本で定着した英語の間違った使い方が含まれています。今最も普通に使われる表現を使用したからです。もしわたしが上記のような主張を徹底するとすれば直さなくてはならない言葉がいくつかありますので、気が付いた読者の方はそれらを直され、その変更が多くの人に受け入れられるかどうかをお考えいただきたいと思います。