アパレル業界は どうなるのか

 毎日パソコンを開けていると色んなメールが届く。怪しいメールも多いが、もう一つ目立つのはアパレルメーカーからのメールだ。サンヨー、オンワード、R-Online(旧レナウン)他からこれでもかというくらいのメールが来る。もちろんわたしがこうしたメーカーのオンラインストアに登録してあるから来るのだが、その送付の頻度がすごいのだ。例えば5日間のオンラインセールがあるとすると、その前に何度か来るのは当然だとしても、セール期間中にも毎日来る。それも会社からの1通ではなくてブランドごとに来たりする。こうなると内容が変わっている(例えばもっと安くなっているのでは)のかと思い毎日見てしまい、内容に変化がなくてもなんとなく買ったほうがいいかな、などと感じてしまうから怖い。しつこいフォローもそうだが、やはり値引き幅が大きいのが買おうかと思う一番の理由だ。定価の半額は普通で、70から80%オフなども多数ある。こうなると定価とは何だということになってしまうが、採算悪化に悩む企業としては何とか在庫を処分したいと願っているのだろう。

 

 大手のアパレル会社がこうした状況に陥ってしまったことについては、もうたくさんの議論や分析がなされてきたのでここで詳細は繰り返さないが、一言で言えば時代の波を掴めなかったことだ。元々は時代の波に上手く乗ったことで成長拡大してきたアパレル企業が、時代の波に乗れなくなって衰退してしまうのを見ると、消費者の変化に対応し続けることの難しさが分かる。このことは現在成功している企業も、いつか同じ状況に陥る可能性が高いことを意味している。戦略の見直しや企業体質の変化を恐れずに行っていかないと現在の栄華は長くは続かないのだ。

 

 サンヨーやオンワードが大幅値引きをしてネットで在庫処分を行うのは、過去の商品を売り切ることで過去の販売政策そのものを断ち切ろうとしているのだろう。これから新しい品揃えにする際に、生産数や品種も減らして大きな在庫が残らないようにする、そして在庫処分の安売りをしないですむようにする意図が感じられる。その結果利益率を高めようとしているようだ。そうした目論見は理解できなくはないが、はたして期待通り上手くいくだろうかという疑問はある。以下の点がその理由だ。

  • 在庫処分のために大安売りをしたら、その商品のブランド力は落ちてしまうのではないか。言い換えると商品が新しくなっても消費者はそのブランドのものを定価で買う気にはならないのではないか。
  • そもそもこれらの企業の売れ行きが落ちたのは、その商品の価格がユニクロやGUのものと比べて高すぎたからではないのか。消費者はファストファッションと比較してデザインや品質の差以上にに価格の差がありすぎると感じているのではないか。その価格差を正当化するほどのブランド力はない。
  • リモートワークが進むと高価格の衣服は必要性が低くなり、清潔でちょっとオシャレな、そして安い価格の物が求められるのではないか。

 こう書いただけでもサンヨーやオンワードの復活は容易ではないような気がする。だからといってファストファッションがメインの選択になるかというとそうも思えない。 多くの人は自分に合うオシャレな服を着ることで自分らしさを出したいと思っているはずだ。ユニクロ、GU, H&Mは悪くはないけど、どこでも手に入りみんなが着る服ではなく、もう少し高くてもオシャレ感がある服を求めている気がするのだ。それを着ると満足感がありハッピーな気分になれるような。こんなニーズに応えるのがアパレルメーカーの役割のはずだ。ビジネスでもカジュアルでもおそらく世代、仕事、趣味、ポジションなどに応じたデザインと価格で、複数の販売チャネルで購入する商品になるのだろう。これを明確な戦略にして具体的な商品として提供できた会社が復活できるのだと思う。音楽や文学や絵画が人生の楽しみであるようにおしゃれもそうだ。ぜひアパレルメーカーには頑張って欲しい。

 

 

不要不急について今一度考えてみよう

 緊急事態宣言の下で、また不要不急の外出を控えろとの要請が政府、地方自治体から出ている。コロナ感染の勢いが中々終息しないので当然の要請だ。不要不急の外出に該当しないのは、必要な日用品の買い物、通院、仕事に限定され、仕事も在宅での勤務が奨励されている。同時に言われているのは3密(密集、密接、密閉)を避けろということである。しかし冷静に考えてみると、必要な外出の要件と3密を避ける行動は必ずしも一致しない。必要な外出のために公共交通機関を利用し、行った先が密接、密閉の要素がある場合は、それなりのリスクがあると言えるだろう。一方で公共交通機関を使わずに密でない場所に行くことはリスクが小さいと考えられるので、必要な外出に該当しないことでもそれほど問題ではないのではないか。わたしは1月の緊急事態宣言の後でもゴルフに行っているが、それは上述したようなことを考えているからだ。

 

 もちろん政府・地方自治体や感染症の専門家の人たちが厳しい言い方をすることも理解できる。そうしないと3密が守られない形での外出をする人が増えてしまい、コロナ感染を大きく減少させることが出来ないからだ。また一方で3密が十分に守られないからとしても、生活必需品の買い物、通院、通勤を認めなかったら人間らしい生活が保障されないことになりかねないからだ。そのためには多少のリスクはやむを得ないということなのだろう。

 

 テレビの朝や昼のニュースショーみたいなのを見ていると、この二つの要請がしっくりこない点を明確に議論しないで、上記の3つの場合以外の外出を非難したり、必要な外出なら3密が守られなくても仕方ないような話をよくしている。マスコミは政府・地方自治体の高官や医療関係者の意見を尊重しながらも、生活者の視点に立った考え方、モノの見方を提示すべきだと思う。コロナになって何か世の中がギスギスして閉塞感があるのも、権力者や専門家が言ったことをマスコミがそのまま再生拡大して、みんな同じ考え方や行動をとらないといけないという風潮を作っているからだと感じてしまう。ニュースショーなどは「不要不急の外出を控える、3密を避けることは大事だけど、ちょっと工夫をして、リスクを小さくできるなら、必ずしも外出することをやめろとは言えないね」といった議論をしてほしい。それだけでずっと世の中の雰囲気が変わると思う。

 

 なぜわたしがこんなことを書くのかというと、わたしには外出したい希望があるからだ。以前このブログでも書いたが、12月24日にマーティンのギターの弦を張り替えていたら、弦を回すペグが壊れてしまった。店に電話すると保証期間内なので修理はするが、店まで持ってきてくれと言われた。金沢八景から御茶ノ水までは電車で1時間はかかる。この時期に電車で1時間もかけて行くのは感染のリスクがあるだろうし、緊急事態宣言下でジジイがギターを持って電車に乗っていたりしたら、「不要不急の外出はするな」と警告を受ける恐れもありそうだ。だからもう1ヶ月半も壊れたままのギターを家に置いてある。他にギターがあるのでとりあえずはそれを使って練習しているのだが、やはりマーティンが弾きたいという欲求は強い。 

 

 感染のリスクを小さくして、人とのトラブルが起きないようにするには、車で行き、用を済ませてすぐに帰ることだと思う。しかし御茶ノ水のように土地勘のないところに車で行くのはあまり気がすすまないのだ。これが修理を遅らせている理由だ。それでも我慢の限界に近づいたので近いうちに車で行こうと考えるようになった。わたしはギターのプロでもないし、代わりのギターも持っているのでこの外出は不要不急なのだろう。国や都が言うところの許される外出とは全く違う。しかし車で行ってすぐに帰るなら感染のリスクはとても小さいのも事実だ。こんな外出も許されないのだろうか。わたしは来週にでも行きたいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

そんな時代

 昨日の日経の文化面に掲載された海猫沢めろん氏のエッセイのタイトルが「そんな時代」だった。そのエッセイは9歳の息子と散歩している時に、彼が突然「おれね、自分で頭いいと思ってるよ」と言ったことから始まっている。確かに息子は勉強も運動も出来るのだが、こう発言するのに筆者は当惑してちょっと水をかけようと思い、ソクラテスの’無知の知’を持ち出したりするのだが上手くいかない。要するに学ぶこと、知識を得ること、モノの本質に迫ろうとすることなどは果てしない行為で、自らに謙虚でいることがその行為を支えるのだといいたいのだが、息子は「そんなことを言っていたらバカに見えるだけだ」と言って取り合わない。筆者は今はそんな時代なのかとまわりを見てみると、確かに大統領も総理大臣もネットで発言し「自分のやったことは正しい」とか「あれもこれも自分だから出来た」とか発言し、誤りを認めることなどない。当然謙虚とは無縁だし、品性などもないが、景気をよくしてくれそうだといった理由でリーダーに選ばれてしまう。

 

 筆者は息子の友達が「スネ夫になりたい」というのも聞いた。「ジャイアンに守ってもらえるし、なんでも買ってもらえるからうらやましい」そうだ。スネ夫は’ドラえもん’の中で最も品性に劣ると思うのだが、それをうらやましいと思う子がいる時代なのだ。筆者はそんな時代に腹を立てつつも、それを変えられないことを嘆いて面白いエッセイになっている。わたしはこの記事で初めて海猫沢めろん氏を知ったのだが、その経歴を調べたらとても興味深い人だった。今は小説家として認められているが、ここに至るまではホストやほかの職業をしてきたそうだ。この息子の母親、めろん氏の妻が出産後体調を崩したので、この人がまだ作家として成功する前に一人で子育てをしたそうで、その時の苦労、死のうかと思ったこともあることを本にしている。頼る人もなくて一人で子育てに携わった多くの母親がその内容に共感しているそうだ。

 

  このようにエッセイは面白いが、本当を言うと読む前にわたしはそのタイトルに引き付けられていたのだ。「そんな時代」このタイトルはわたしに中島みゆきの代表曲’時代’を思い出させるからだ。多くの人が知っていると思うが、それはこんな歌詞で始まっている。

 

  (イントロ) 今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて もう二度と笑顔には

         なれそうもないけど

 

  そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ

  あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ

  だから今日はくよくよしないで

  今日の風に吹かれましょう

 

 いつ聴いても、いつ歌詞を読んでも魂を揺さぶられる。1975年に発表されたこの曲が50年近く経った今もその輝きを失わないのは、困難に立ち向かう人たちの気持ちをくみ取り、支えるからだろう。この国ではわたしが生まれる前に太平洋戦争があり、10年ほど前には東関東大震災があり、最近はコロナの感染が広がっている。こうした出来事のたびに、多くの人が命を失い、大きな怪我をし、本人だけではなくその家族や友人が悲しみや痛みを受けている。第三者はそれに心を痛めて、支えになりたいと思い、出来ることをしてみる。それはそれで被害を受けた人たちやその周囲の人たちへの何らかの助けにはなるのだが、本当の苦しみや痛みは想像するしかできないし、やはり当事者の方々が自ら乗り越えていかなくてならないことなのだ。何かがおこるとわたしたちはそのことに気づき無力感の中でも何かしようと、希望を持とうと思う。そんな時の気持ちを支えてくれるのがこの歌だと感じる。

 

 大げさな言い方だが人類の歴史とか暮らしとかはこうしたことの繰り返しだと思う。困難に遭遇しても一人ひとりが懸命に生きてきた積み重ねが歴史を作ったのだと思う。

それは今も変わらない。中島みゆきの歌詞の凄さはそうした物事の本質をとらえて、さりげなく表現しているところだ。その評価はこれからまた50年経っても変わらないだろう。2番はこんな風に始まっている。

 

   旅を続ける人々は いつか故郷に出会う日を

   たとえ今夜は倒れても きっと信じてドアを出る  

   たとえ今日は果てしもなく 冷たい雨が降っていても

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

今の権力者達は日本陸軍幹部のようだ

 12月にぎっくり背中をやったが1月9日にまた同じところを痛めた。激痛で起きているのもつらく丸一日横になっていた。年を取るとこういうことが良く起こるようだ。上手くやり過ごしていくしかないのだろう。一方でやり過ごすことが出来ないのが、最近の政治家達の発言だ。怒りを通り越して呆れるほどのものが多いが、ここでは特にオリンピックに関連した発言を見てみよう。

 元総理でオリンピック・パラリンピック大会組織委員長の森喜朗氏は年頭の挨拶で「私が考え込んだり、迷いが出てきたとしたらすべてに影響してくる。淡々と進めてい

くしかない」と語った。

 その後の講演会では「私の立場では『今年難しい』とは口が裂けても言えない」とも語り、直近の世論調査では8割の人が再延期か中止すべきとの意見だと言われると「こういう時期になぜ世論調査をやるのか、私は疑問だ」と答えた。

 

 菅首相はオリンピック開催は困難と多数の国民が考えていることについて「ワクチン接種が始まれば国民の雰囲気も変わってくるのではないか」と話し、ビル・ゲイツとの電話対談では「オリンピックを必ずやりきる」と言ったと伝えられている。

 

 菅総理生みの親ともいわれる二階自民党幹事長はオリンピックについて「開催しないという考えを聞きたいくらいだ」と言い放った。

 

 要するに現在日本の最高権力者達が’何が何でもオリンピックはやる’と言っているのだ。開催にどんなリスクがあるのか、どうすれば心配ないレベルまでリスクが減るのか、どんな状況なら開催を断念するのか、最終的な意思決定のタイミングは何時なのか、そんな当然の疑問に答えることもなくただ’やるしかない’と言い続けている。いわば思考停止状態で、それを国民にも求めている。今はやらないなどと考える時ではないという具合に。

 

 わたしはこうした発言を聞いていて保阪正康の「昭和の怪物 七つの謎」という本を思い出した。保阪氏が太平洋戦争の真実を探ろうとしてきた中で書かれた本で、当時生きていた人たちへのインタビューや現存する資料に基づいて著者の意見をまとめた力作だ。その最初に取り上げられたのが東條英機だ。この人についてはいろいろと語られているのでここではこの本に書かれたことだけを紹介したい。そのことで太平洋戦争を始め、戦況が悪化して敗色濃厚になっても戦いを続け数百万の命を無駄にした総理大臣と、上述した今の権力者達がいかに酷似しているか分かると思う。

 

 東條英機を見て分かる’選んではならないリーダー’には「精神論が好き」「妥協は敗北」「事実誤認は当たり前」という共通点があると言っている。一言で言えば’自省がない’ことだそうだ。こうしたリーダーは’私情がらみの人事を行い、諫言の士より服従の部下、そして何より自分の言い分に一切口を挟まない幕僚’を好んだ。

 

 また米国との開戦に反対する海外駐在の武官が客観的データを伴った報告書を送ってくると、こうした者たちは弱虫、小心者として退けたという。飛行学校で、’君らは敵機を何で撃ち落とすかと問い、高射砲で撃墜するとの答えに「違う。精神で撃墜するのだ」と答えた。昭和19年6月にサイパンが陥落し敗色濃厚の時には「まだ恐るるには足りない・・・・・・日本人が最後の場面に押しつめられた場合に、何くそと驚異的な頑張りを出すことは私は信じて疑わない」と語った。東條は「戦争は負けと思った時が負け」と考えていたという。

 まだ他にも似たような話が紹介されているが、興味を持った方は読まれたら良い。わたしが感じたのは無能なリーダーの下で日本は太平洋戦争を始めて、たくさんの命を失い、国土は焦土となったのだ。今の権力達のもとで似たようなことが起こらないとはいえないのが恐ろしい。こうした権力者を選んだのは我々国民なのだから、次回の選挙はしっかり考えて投票すべきだと思う。選ぶに値する人がどれだけいるのかという問題はあるけれど、その中でも信頼できる人に国を任せるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

コロナ禍での年末年始

 コロナが猛威を振るう中での初めての年末年始となった。といっても普段と違ったのは二組の子供家族が一堂に会せず、別々に来たことだ。両方とも川崎市に住んでいるので、帰省といっても遠い地方に行くのではなくちょっと帰るといった感じだ。娘家族は28日から30日までいて、息子家族は元旦から2日までいた。孫たちも来るのでにぎやかで楽しいのだが、普段二人きりの生活に慣れているとやはり疲れて、2日の夜に静かになった時はホッとして一仕事済んだ気分だった。

 

 他の点では例年と変わらないので、感染者数が最高になったというニュースで気分が沈みがちになることはあるが、のんびりと過ごした。足りなくなった食材を買いにスーパーに行った 他はテレビを見るか本を読んでいた。3日にはいつもの通り横浜CCで初打ちをした。無観客の紅白歌合戦もそれなりに面白かったし、女性歌手に歌唱力のある人がそろっていて紅組の勝利も当然の感じがした。スポーツは中々の好試合が多く楽しめた。特に井岡一翔田中恒成WBOスーパーフライ級のタイトルマッチは手に汗握る戦いだった。

 

 井岡は現チャンピオンだが、31歳という年齢と、2017年に一度引退したりしてピークを過ぎた感じがあった。一方の挑戦者の田中はやはりWBOのフライ級チャンピオンで、25歳で3階級制覇を達成したボクシング界のホープである。下馬評は田中優勢だったが、試合は井岡が2度のダウンを奪い8回TKOの圧勝となった。クリンチもなく正々堂々とした試合で見ていても気持ちよかった。井岡のテクニックとパンチ力には改めて驚いた。10月に井上尚弥がモロニーを倒してみせた強さも印象的だったが、試合そのものとしては井岡のほうがスリリングで面白かった。日本人の世界タイトル戦でこんなに印象に残るものは少ないと感じた。井岡の今後には注目だ。

   

  サッカーの天皇杯川崎フロンターレが順当に優勝した。フロンターレの力は明らかに抜きんでていて、3部のチームとして勝ち上がったブラウブリッツ秋田との準決勝などは、一昔前の日本のプロチームと英国のプロチームが戦っているような感じだった。フロンターレは個々の選手が優れている上に、チームとしての戦術やまとまりも秀でていた。

 箱根駅伝は青山学院が往路で下位に沈み創価大がトップになった。3日にゴルフ場で昼食をとっていた時に創価大が2位に3分以上の差をつけて最終走者にタスキを渡した。この差なら優勝は決まりだと思って午後のスタートに行き、プレーが終わりクラブハウスに帰ってみると駒澤大学が逆転優勝でびっくりした。スポーツは最後まで分からないとつくづく感じた。スポーツの魅力は凄いものだ。

 

 スポーツがいかに人々を感動させるかといっても今の状況でオリンピックをやるのが良いかは疑問だ。菅首相は1月4日に関東の一都三県に緊急事態宣言の発令を検討すると言ったが、その内容は効果がどれほどあるか首をかしげるものだった。医師たちが12月初めくらいから医療崩壊を防ぐために様々な提言をしてきたのに耳を貸さず、GOTOキャンペーンとの関連のエビデンスがないと主張して経済優先の姿勢を維持していたが、コロナ感染がひどくなりにっちもさっちもいかなくなると、やっと姿勢を転換した。状況判断が悪く、その結果政策の変更が遅くなるという最悪の事態である。同じことがオリンピックでも起こると、要するにぎりぎりまでやると言いつつ最後に中止の決定をすると、無駄な費用はかかるし、国の経済は落ち込むし、国際的な信用は失墜する。最悪のシナリオである。コロナが収まらないのにオリンピックを強行すれば国内にコロナを蔓延させるリスクが高まる。早めに中止か延期を決定するのがいいと思うのだが、そんなことは出来そうにない。

 状況判断が出来ず、早めの決断が出来ない人がリーダーでいると国はどうなるのか。菅首相が自ら辞める可能性は低いとなると、今回の状況を記録、記憶して将来への教訓とするしかないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

トラブル続きの12月;でもマァいいか

 今年の12月は何か変だった(まだ途中ですが過去形)。13日の日曜の朝に全米女子プロで頑張る渋野を応援しようとTVを見るために、居間のテーブルで朝食をとった。どんな姿勢かというと床の絨毯に置いた半円の厚いクッションに座り、ソファを背もたれにしていた。朝食をとり終えテーブルの下に出していた足を組み替えようとした時に激痛が走った。何が起こったのか分からないまま動けなくなり、どうにか四つん這いになった後ソファに転がるようにして横になった。30分ほどして起きてきた妻が隣の部屋の雨戸が開いていないと非難がましく言うので、ソファに寝ながら「背中が痛くて動けない」と返事をした。

 

 ぎっくり腰と同じことが左背中下部に起こったようだ。妻が整形外科から処方された消炎のシップ薬があったのでそれを背中に貼ってベッドで丸くなっていた。月曜日は会社時代の友人と横浜CCでゴルフだったのだが、午後にその一人に状況を話して行けないと伝えた。彼は他の二人と相談し、結局全員キャンセルすると電話してきた。痛いのを堪えて布団の中からゴルフ場にキャンセルの連絡をすると、受付の女性は前日キャンセルの場合は4人で1万円のキャンセル料がかかるという。わたし以外の3人がやる場合は、キャンセルは一人なので2500円ですむとも言う。瞬間悩んだが、もう一度友人に電話する気力もなく4人キャンセルとなった。大体高い年会費をとっておいて一万円のキャンセル料はないだろうと怒りがわいたが、痛みには勝てず、結局2日間寝込んだ。

 

 背中の痛みもほとんどなくなった24日にマーティンの弦交換をし始めたら、3弦のペグ(弦巻き部)が動かなくなった。元々3弦のペグは硬くてうまく回らず、いつも弦交換やチューニングの時は指だけでは正しい高さの音になるまで回せず、最後はペグワインダーというペグを回転させる器具を使っていた。この日も同じやり方で弦を巻いていたのだがどうにもペグが重くて、全力をかけて少しづつ回る状態が続いたが、その内ペグを巻いても音が高くならなくなり空回りしていることに気づいた。ヘッドの裏を見るとペグの歯車のかみ合わせが上手くいっていない。

 下の左の写真は正面からのヘッドで、6から4弦までは張替え、3弦が途中になっています。1弦,2弦はまだ弦が張っていません。右の写真は裏側でペグの歯車が映っています。ペグのつまみをを時計回り、または反時計回りに回すと歯車が動き、それとかみ合った歯車がヘッド側のペグを回して表の弦を巻く仕組みです。左側の一番上が問題の箇所です。

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 これは今年の2月に買ったばかりなのでギター店に電話すると保証期間なので無料で直すが、持ってきてくれという。コロナが蔓延している時に横浜の最南部からお茶の水まで行くのは気が進まないので、来年に行くことにした。他に2台ギターがあるので当面はそっちで練習することになる。

 

 翌日年賀状が出来上がったので取りに行き、宛名印刷をしようとしたが住所録が入っているファイルが開けない。今年はパソコンを2台ともに買い替えたので筆まめのアプリがインストールされていないせいらしい。ファイルはfwaという拡張子を使っているのだが、これがウィンドウズでは開けられないようなのだ。調べてみるとそれを解決するソフトがあるようだが、それを買うくらいなら 新しいバージョンの筆まめを買ったほうがいいと考えて電気屋に行った。また予想外の事態と出費で落胆したが、新しいソフトは進化していてどうにか以前作った住所録を最新の筆まめに移行できた。来年は自分ではがきのデザイン面も印刷しようかとも考えたりした。

 

 これらを乗り越えて今年最後のブログを書いている。その後年賀状に一言添えて明日にはポストに投函だ。トラブルはあっても解決できる程度のものだから良かったと思う。コロナに罹った人たちの大変さを思えばなんていうことはない。またコロナ医療の最前線で働いておられる方々の献身と労苦を思えば不満を言ってはいけないと思う。来年も明るいどうか分からないが前向きな気持ちだけは持ち続けたい。政治家たちが誠実で謙虚で聡明で勇敢になってくれたらどんなに良いだろうか。

 

 

経験から学ぶ;渋野日向子

 22歳で入社し58歳の少し前まで米国系の石油会社の日本法人に勤務した。そこは昔風の典型的な米国巨大企業で、よく言えば見事にコントロールされた組織を持つ、裏を返せば非常に官僚的な風土の企業だった。従業員は長期雇用で、重要ポジションは社内からの登用が原則であり、日本人が考える米国企業のイメージ、転職が多く幹部を社外調達するとは正反対だった。そうした企業で生き残り昇進をするには、仕事が出来る(明確な業績をあげる)だけではなく、ある種の行動規範に基づいて仕事をすることになる。だから幹部になった人達の行動や考え方には多くの共通点が見られた。

 

 米国本社の幹部が来日した時には、日本本社の管理職を集めて講演をしたり質疑応答を行うことが多かった。管理職になりたての若い社員がよくした質問は、’どうしたらあなたのように高い地位まで登れるのか’だったが、その時の答えは大体同じで ’よく働け、そして経験に学べ’ というものだった。日本ではよく’失敗に学べ’というがほぼ同じ意味だろう。何故そんな昔のことを思い出したかというと、今テキサスのヒューストンで行われている全米女子オープンで、渋野日向子が2日目終了時点で首位に立ったからだ。

 

 渋野は昨年プロ1年目で世界のメジャータイトルである全英女子を勝ち、その魅力的なスマイルとともに世界のゴルフ界に名をとどろかせた。日本でも大きな大会で4勝してトッププロの地位を確立したスーパースターである。シーズンオフの間にトレーニングを重ね、強固な体を手に入れ、スイングの再現性を高めたと言われていた。当然関係者やファンは昨年よりレベルアップし一層の活躍をすると期待した。しかし日本の開幕戦で予選落ちをすると、その後の英国での大会でも2戦連続で予選落ちし、その一つは連覇が期待された全英女子での予選敗退だった。その後も米国で2つのメジャーを含む4試合に出て、予選は通ったが最高の成績が24位だった。

 

 聡明で責任感が強いと言われる渋野には苦しい日々だったと思う。米国遠征の後の国内戦でも思うような結果が出ず、昨年はまぐれだったかという声まで出ていた。しかし国内の最後に2戦で復調の兆しを見せると今回のメジャーで見事な活躍を見せている。二日目終了後のインタビューで’過去のことは忘れた’という意味のことを言っていたが、去年の夢のような成功にとらわれて自分のゴルフが出来ていないと感じての発言だったのだろう。経験に学んだからこその言葉だったと思う。

 

 会社勤めや社外で色んな人を見てきたが、経験に学ぶことが出来るのは一種の才能だと思っている。大企業の社員のほとんどは有名大学をでているので、きちっと勉強をしてきた人たちで、勉強やスポーツをする過程で経験に学んできたのは事実だ。しかし答えが容易にみつからない実社会での経験(その多くは楽しくはない経験だ)から学ぶのは勉強やスポーツとは違う点が多い。自分に謙虚で簡単にへこたれない、ものを多面的に見て考える、周囲の人の気持ちを気遣う、楽観的だ等々の要素を持っている必要がある。渋野を見ているとそれに当てはまるようだ。

 

 まだ二日目が終わった段階だから、最終的にどうなるかは分からない。特に勝つか否かは時の運だ。それでも二日間の渋野プレーや発言を聞いていると大崩れはしないような気がする。全英に勝った翌年に全米に勝つことがあれば歴史的快挙だ。渋野にはそれを期待させるスター性がある。あと二日間ファンとして楽しもう。

 

 話は変わるが今日の日経の’私の履歴書’で福川伸次という元通産次官が大平正芳元総理のことを書いている。福川氏は大平氏通産大臣になった時に秘書官になったそうだ。大平大臣の人となりを書いたところが興味深い。以下は抜粋です。

’大平大臣は人事に関してはすべて通産次官に任せ、一切介入しなかった。「役人はやる気にさせれば何でもやるからな」と信頼していた’

’大臣は大変な読書家で土曜の午後はよく本屋に立ち寄った。「どういう本が並んでいるかで世相がわかる」と言っていた’

’文章も推敲を重ねるのが常で、丹念に赤字を入れた。「政治は文学である」という言葉をよく引用していた’

 

 これらのエピソードを読むと最近の総理とあまりに違うので驚く。何が違うかといえば教養だ。そして何より自分に自信がある。最近の総理が人事権を盾に取り官僚を服従させようとすると反対だ。彼らは自分に自信がなく、能力もないからそうした行動をとるのだろう。キッシンジャー元米国大統領補佐官が印象残った政治家として大平正芳をあげていたのを思い出した。「彼には哲学があった」とキッシンジャーは言っていた。福川氏も最近の総理への当てつけでこんな話を書いたのかもしれないと感じた。